なんかもうフリーダム。
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全ての生物がその生涯において刻む鼓動の数はほぼ同数であるとされる。
生態の機能として、それを使い果すこと=死とする。
代謝促進により、その予定数を通常より早い時間内で使い果たしたところで、結果は変わらない。
人格・感情・記憶などの精神面において考えてみたとしても、
それらは脳内における化学反応の結果生み出されるものであるのだから、
生体機能の停止によって、同様に失われるものである。
では、残されたものは何か?
「時間」である。
事故であれ病気であれ老衰であれ、死の瞬間までに刻まれた鼓動数。
本来その数を刻み終えるまでに使われるはずだった時間が、
まだ彼には残されていると考えることが出来るのだ。
しかし肉体は既に無く、故に精神も存在せず、
ただ在るのは「時間」。それだけなのである。
(例えば、映画を観たとしよう。二時間の映画だ。ある人がそれを鑑賞するため、二時間の余暇をつくった。しかし、その人はそれを倍速再生し、一時間で見終えた。全ての映像及び音声は、確かに再生された。だが、二時間あった余暇は、まだ一時間ある。もう、見るべき映像も音声も残っては居ない)
それは空白だ。
けれど彼のものだ。
だからそれを。
小箱に入れて鍵をかけ、そっとしまっておくことは出来ないか。
…ええと、うん、すみません…。
くらふとえヴぃんぐ商会のさー…なんだっけ?何か、時間を管理するやつ。
あれ膨らましてパラレルみたいなメルヘンみたいな胡散臭くてどうとでもとれるようなの書きたいなー、とか。
考えに考えた結果がこんなのです、駄目じゃん。
とんだ屁理屈、机上の空論。
難しいなー。
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生態の機能として、それを使い果すこと=死とする。
代謝促進により、その予定数を通常より早い時間内で使い果たしたところで、結果は変わらない。
人格・感情・記憶などの精神面において考えてみたとしても、
それらは脳内における化学反応の結果生み出されるものであるのだから、
生体機能の停止によって、同様に失われるものである。
では、残されたものは何か?
「時間」である。
事故であれ病気であれ老衰であれ、死の瞬間までに刻まれた鼓動数。
本来その数を刻み終えるまでに使われるはずだった時間が、
まだ彼には残されていると考えることが出来るのだ。
しかし肉体は既に無く、故に精神も存在せず、
ただ在るのは「時間」。それだけなのである。
(例えば、映画を観たとしよう。二時間の映画だ。ある人がそれを鑑賞するため、二時間の余暇をつくった。しかし、その人はそれを倍速再生し、一時間で見終えた。全ての映像及び音声は、確かに再生された。だが、二時間あった余暇は、まだ一時間ある。もう、見るべき映像も音声も残っては居ない)
それは空白だ。
けれど彼のものだ。
だからそれを。
小箱に入れて鍵をかけ、そっとしまっておくことは出来ないか。
…ええと、うん、すみません…。
くらふとえヴぃんぐ商会のさー…なんだっけ?何か、時間を管理するやつ。
あれ膨らましてパラレルみたいなメルヘンみたいな胡散臭くてどうとでもとれるようなの書きたいなー、とか。
考えに考えた結果がこんなのです、駄目じゃん。
とんだ屁理屈、机上の空論。
難しいなー。
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